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ちりぬるをわか

日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

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東北から北海道にかけて雨の天気で水不足が少しは解消されると良いな。
・・と思う今朝のこちらは薄い雲に覆われた空と高めの湿度になってます。

腰痛は相変わらずで、痛い箇所を庇って他のところまで痛くなってます。
寝る時以外はサポーターを着けてる日々です。
じっとしていてもすぐに痛みが出て辛いので時々ゆ〜っくりと立ち上がって少し歩いてます。まあ、サポーター着きだと真っ直ぐ立っていれば部屋の中を歩く程度はできるくらい回復したと思います。
ただ、少し良くなったからと気を抜かないよう自分に言い聞かせてます。なんだか今回はまだまだ時間がかかそう。

腰痛もあるしでいつも以上に眠りも浅く、目が覚めてもモヤモヤな気持ちが出てきてなかなか眠りに戻れない。
今朝もそんな感じであれこれモヤモヤと思い巡らせているうちにまたウトウトと眠っていました。

どんなモヤモヤなのか一言で言うのは難しいのですが、やましい内容ではありません(笑)。
どちらかというと今の時勢とか流れとか、例えばトランプ関税についてとか。
自分一人が考えていても何かが変わるわけも無いと分かっててもつい浮かんでしまう。

そうやって自分なりにあーだこーだと思っても、物事の捉え方にはいろんな視点、見方があるわけで、どれが正しいというのはないのかもしれない。
歴史的事実をしてもそれが良いのか悪いのかなんてのはいつまでも答えが出るわけもないし、それを判断するのは後世でしょう。
でも、そうやって色々と思い巡らせていると、とても歯痒く感じてしまうのも確かなんですよね。世の人はそんなことは思ったりしないんだろうか?

逆に、もっと若ければそんなことはスルーして他のことに目を向けていたのかもしれません。
この歳になったから目を向けられるようになった?
いや、暇だから目を向けてしまうのか?

そもそも目を背けても背けなくても自分の人生の中では大した違いはないんでしょう。
自分の生活と時勢の差もまた大きくて、その流れの表面に浮いて出たにフリまわされているのが生活の淀というものなのでしょう。
どこか山奥に庵でも結んで静かに暮らしたいなと思ったりするなあ、なんてね。

では良い一日になりますよう。
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ゴロゴロと寝転がってるだけの一日。
時々トイレに行くので頑張って起き上がる。

今朝もまだまだの状態なので、今日もゴロゴロなのかな。

昨日はパラパラと「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を拾い読みしていた。
初めてこの本を手にとった時から何年たったんだろ?
その間に世間も変わったけど自分も変わっていて、最初に思ったのは「文庫本の活字が小さい」
だった。
うん、これは自分が老眼になったからというのもあるが(笑)。
でも「街」と比べてみても明らかに大きさが違う。

さて拾い読みしてみて、ここにはいろんなものが詰め込まれ過ぎてると思った。
それらは全て村上春樹のエッセンスなんだけど、いろんなもので溢れ過ぎてる気がしたのだ。なんだか、カフカの「城」を読んだ時のような感覚になってしまった。

そして色々と盛り込まれてる割には、脚色のないストレートな部分もあったりする。

いくつかの章の拾い読みだけど、内容的には「街」の方がわかり易いというか凝縮されていると言うべきか。その分、残りの部分は(やっぱり)読み手の想像力に委ねる余韻も残してるわけで。

さらに話は戻って「街」の感想の追加。
この話の構成って、どこかノルウェーの森にも似てるとも思いながら読んでた。う〜ん、物語の内容というよりも構成が似てると思ったのだ。

結局一人の作者が書いたものだ、どこかしら似通った部分があるのは仕方ないのかもしれない。

村上春樹が自らあとがきの中で書いた通り、「ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、酔うような形に書き換えていくだけなのだ・・と言ってしまっていいかもしれない。」
私は「構成」と書いたけど、モチーフという言い方が合ってるのかな?

う〜ん、村上春樹ほどのすごい作家でも、「真摯に語れる」ものを自分の歳や時間に合うように手探りしているのかもなあ。
・・・なんてあれこれとダラダラ思っていたのでした。

今日は朝からどんより蒸し暑くなってます。
いつもよりも動いてないけど、こういう時はかえって水分補給を意識しないと。

では良い一日になりますよう。
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「街とその不確かな壁」 上下巻 村上春樹 新潮文庫 2025年5月

上巻裏表紙より:十七歳と十六歳の夏の夕暮れ、きみは川べりに腰をおろし、“街“について語り出すーーそれが物語の始まりだった。高い壁と望楼に囲まれた遥か遠くの謎めいた街。そこに“本当の君“がいるという。<古い夢>が並ぶ図書館、石造りの三つの橋、針のない時計台、金雀枝の葉、角笛と金色の獣たち。しかし、その街では人々は影を持たない・・・村上はるきが封印してきた「物語」の扉が今開かれる。
帯:ねえ、わかった? わたしたちは誰かの影に過ぎないのよーー

下巻裏表紙より:図書館のほの暗い館長室で、「私」は「子易さん」に問いかける。孤独や悲しみ、“街“や“影“について・・・。そんなある日、『私」の前に不思議な少年があらわれる。イエロー・サブマリンの絵のついたヨットパーカーをきて、図書館のあらゆる本を読み尽くす少年。彼は自ら描いた謎めいた“街“の地図を携え、影を捨てて壁の内側に入りたいと言うーー二つの世界を往還する物語がふたたび動き出す。
帯:きみが、その街を教えてくれたーー

感想:あまりにもたくさんあり過ぎて書ききれないので、気になった点だけ残しておく。
1)第一部の「きみ」について。まず第一部でどうなったのか?
その答えは第二部で少年がどうなったかと重なるので、そう言うものだと捉えるのならそれはそれでアリだと思うが、その後の「きみ」が果たして図書館の少女なのだろうか、そうだとも言えるしそうでもないとも言えると言うのが答え。

2)単角の金色の獣がなんなのか。これは深層心理学的にとても興味があるんだけど(笑)。もちろん作中にも、作中以外にも答えは出てこない。おそらく筆者も知らないんだろう。けれどこの獣を描くことは必要であり、重要な要素であることは間違いない。
読み手としてはどう見立てれば良いかとワクワクする。

3)第二部に出てくるコーヒーショップの女店長が気になる。その後は出てこないが、この店長も第一部の「きみ」の延長線上にいる存在。そして第二部に出てくる少年は「私」の延長線上にいる構成になってる。

4)第一部が「街」について描いていて、第二部ではその街に残ったはずの「私」が現実に戻って、やがて自分の後継者とも言える少年を連れて街に戻るというのが第三部。
そこに作者の無意識的な意図が隠れているようでこの展開も面白いかな。
あとがきでも「世界の終わり・・」とは別の展開と言ったことを書いてあったが、まさに別展開になったと思う。「世界の終わり」が流れで書かれたものだとすると、「街」は流れに任せるのではなく流れを造った物語だろう。

とりあえずはこの4つを記しておく。

村上春樹の多くの作品は、そこに描かれたものを「なぜ」や「どうして」を問わずにあるがままの文章を味わう、そこから何を思うのかは読み手の味わい方だと思う。
「夢読み」人の夢を読むことがそう言うものであり、受けとって手の中で温めていると自然に何かを伝えてくれるのと同じだから。

以上



と思ったけど追記(笑)。
街ってなに?不確かな壁って何?に対する「一つ」の答え。
『ATフィールドは誰もが持っている心の壁』 by 渚カヲル
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