ちりぬるをわか
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「老愚者考」 A・グッゲンビュール=クレイグ 新曜社 2007/06/25 監訳者 山中康裕
解説より(山中康裕):ユング派の論客、精神科医にして心理療法家のグッゲンビュール=クレイグ博士の著書1986年の翻訳。本書の価値を一言でいうなら、まさに現代の高齢化状況、たとえば認知症への対応などにおいて、もっともアップ・トゥ・デイトな論考であり、かつ、ユングの理論中の元型論、なかんずく、そのうちの「老賢者」論に対して真っ向から反論を加えるものの一つであることで、大変にユニークな所であることをまず言っておこう。そして、とてもすぐれた神話論でもあり、かつ、「神話心理学」という新しいジャンルを樹立している画期的なものでもある。その意味でユング心理学の新しい側面を開くものなのである。(解説1より抜粋)
感想:本書はいきなり平等についての考察から始まるので、
これと老愚者がどうつながるのか全く戸惑ってしまった。
しかし平等など実際的にはない、平等という神話に支配されているだけなのだと続ける。
確かにその通りだろう。
ではどこに平等があるのか?
それは神話の世界のディオニュソスがそれだという。
そこにあるのは秩序と無秩序の両面を兼ね備えた世界にある人たち。解明できない矛盾をはらんだものこそが平等の状態なのだ。それこそがあるべき神話の型なのだという。
そこから現代にみられるいろいろな考え方や思想などすべてが「神話」として現代人の中にあって、その人の行動をもたらせていると展開していく。
その現代の神話が導くのは一面だけでありそういう神話は人を陥れていくのだと。
例えばナチズム、例えば宗教だったり、発達心理学だったりヴィーガンだったり、科学主義だったり社会主義だったり。
いずれも一面だけを強調して人を動かしている。
それがやがて破滅に繋がるというのだ。
その中に老人は知恵者であるという神話もあり、そこから老人についての考察に繋がっていく。
確かにユングの言う「老賢者」というのは老人元型の一面でしかない
とここで気づかされることになる。
よく考えればユングの言う元型はいずれも両価的側面を持っているものなのに、
老賢者だけが一面ということに疑問を抱かなかったわけだ。
その意味でも山中先生のいう「真っ向から反論を加える」ということなのだろう。
老人は知恵者だというレッテルのもと権力権威と結びついてしまっている。(第12章)
しかしそこから離れて自由になれ、老愚者になれば自由に自分を生きられるのだと言う。(第13章)
そしてこういった神話の研究から人間のもつ神話の病を見出す事もできると結ぶ。
そして山中先生の解説がこのあとに続く。
この解説があるからこそこの本の理解が深まるのだろうと思った。
以下抜粋:「でも、ここで読者は読み違えてはならない。世の中の一般の方向は、脱神話をはかり、みかけだけの平等を追求していること、しかし、ユング派は、「神話は人間にとって大切なもの」だというわけで、「心理学は神話なのだ。より包括的にいえば、神話がなければ人文科学は成り立たない」と、その対立をさらに際立たせ、われわれ心理療法家は、外的な現実だけに忠実になるのではなく、内的なものにこそ忠実になり続けることなのだ、というところにもっていくのである。このことは、さしずめ、今なら、アメリカの精神医学会から発して、今や着々と日本の精神科領域にも浸透しつつある、DSM-IV-TRなどによる、えせ均一化、えせ平等主義による、治療哲学なき、操作的「診断」第一主義や、それとは別の流れだが、いわゆる「EBM(Evidence based medicine)」と称するモノだけが真実追究の方法なのだと言わんばかりの風潮や、すでに少しく前からある、行動観察と認知に立脚する心理学のみが科学的であるとする、えせ科学主義に基づく心理学いっぱんの風潮に対する「NBM(Narrative based medicine)」つまりナラティブ(物語)を重視する立場との対立をすぐにも思い浮かべることができよう。間違いなく、グッゲンビュールは、こころやたましい、つまり精神内界を追究する額物の方法には神話学的方法こそが必須なのだ、と述べているわけなのである。そして、この方法をとる心理学を神話心理学と呼び、彼はこの新しい領域を池沼するわけだ。(p162-163)
と長くなってしまったが、こういう内容だとここにしっかり示されている。
(注:実際、山中先生の文章は長い。話も長い人だ。上の引用文の「世の中の一般~~と述べているわけなのである。」までが一つの文章として繋がってるのだわ。ホント長いよ^^;。
個人的な感想も山中先生の言う、操作的診断第一主義やらEBMやらを
今の放送大学の心理学を通して見聞きし、
そこにいわゆる「たましい」がないなあと感じていたのだ。
自分がユング派に近いところ勉強してきたこともあるんだろうけど、
この感覚はある意味正しかったんだとストンと落ちてくれた。
難しいかなと少しずつ読んでいたけど、一つ一つはとても分かり易かった。
ただ著者はスイスの人で、周辺国の例えとかでてくるのがちょっとわかりにくかったけど^^;。
でも久しぶりにユング派の著書を読んで、やっぱりこの方向に自分が経っているのを感じた。
以上、後々に読み返して思い出すためのノート
解説より(山中康裕):ユング派の論客、精神科医にして心理療法家のグッゲンビュール=クレイグ博士の著書1986年の翻訳。本書の価値を一言でいうなら、まさに現代の高齢化状況、たとえば認知症への対応などにおいて、もっともアップ・トゥ・デイトな論考であり、かつ、ユングの理論中の元型論、なかんずく、そのうちの「老賢者」論に対して真っ向から反論を加えるものの一つであることで、大変にユニークな所であることをまず言っておこう。そして、とてもすぐれた神話論でもあり、かつ、「神話心理学」という新しいジャンルを樹立している画期的なものでもある。その意味でユング心理学の新しい側面を開くものなのである。(解説1より抜粋)
感想:本書はいきなり平等についての考察から始まるので、
これと老愚者がどうつながるのか全く戸惑ってしまった。
しかし平等など実際的にはない、平等という神話に支配されているだけなのだと続ける。
確かにその通りだろう。
ではどこに平等があるのか?
それは神話の世界のディオニュソスがそれだという。
そこにあるのは秩序と無秩序の両面を兼ね備えた世界にある人たち。解明できない矛盾をはらんだものこそが平等の状態なのだ。それこそがあるべき神話の型なのだという。
そこから現代にみられるいろいろな考え方や思想などすべてが「神話」として現代人の中にあって、その人の行動をもたらせていると展開していく。
その現代の神話が導くのは一面だけでありそういう神話は人を陥れていくのだと。
例えばナチズム、例えば宗教だったり、発達心理学だったりヴィーガンだったり、科学主義だったり社会主義だったり。
いずれも一面だけを強調して人を動かしている。
それがやがて破滅に繋がるというのだ。
その中に老人は知恵者であるという神話もあり、そこから老人についての考察に繋がっていく。
確かにユングの言う「老賢者」というのは老人元型の一面でしかない
とここで気づかされることになる。
よく考えればユングの言う元型はいずれも両価的側面を持っているものなのに、
老賢者だけが一面ということに疑問を抱かなかったわけだ。
その意味でも山中先生のいう「真っ向から反論を加える」ということなのだろう。
老人は知恵者だというレッテルのもと権力権威と結びついてしまっている。(第12章)
しかしそこから離れて自由になれ、老愚者になれば自由に自分を生きられるのだと言う。(第13章)
そしてこういった神話の研究から人間のもつ神話の病を見出す事もできると結ぶ。
そして山中先生の解説がこのあとに続く。
この解説があるからこそこの本の理解が深まるのだろうと思った。
以下抜粋:「でも、ここで読者は読み違えてはならない。世の中の一般の方向は、脱神話をはかり、みかけだけの平等を追求していること、しかし、ユング派は、「神話は人間にとって大切なもの」だというわけで、「心理学は神話なのだ。より包括的にいえば、神話がなければ人文科学は成り立たない」と、その対立をさらに際立たせ、われわれ心理療法家は、外的な現実だけに忠実になるのではなく、内的なものにこそ忠実になり続けることなのだ、というところにもっていくのである。このことは、さしずめ、今なら、アメリカの精神医学会から発して、今や着々と日本の精神科領域にも浸透しつつある、DSM-IV-TRなどによる、えせ均一化、えせ平等主義による、治療哲学なき、操作的「診断」第一主義や、それとは別の流れだが、いわゆる「EBM(Evidence based medicine)」と称するモノだけが真実追究の方法なのだと言わんばかりの風潮や、すでに少しく前からある、行動観察と認知に立脚する心理学のみが科学的であるとする、えせ科学主義に基づく心理学いっぱんの風潮に対する「NBM(Narrative based medicine)」つまりナラティブ(物語)を重視する立場との対立をすぐにも思い浮かべることができよう。間違いなく、グッゲンビュールは、こころやたましい、つまり精神内界を追究する額物の方法には神話学的方法こそが必須なのだ、と述べているわけなのである。そして、この方法をとる心理学を神話心理学と呼び、彼はこの新しい領域を池沼するわけだ。(p162-163)
と長くなってしまったが、こういう内容だとここにしっかり示されている。
(注:実際、山中先生の文章は長い。話も長い人だ。上の引用文の「世の中の一般~~と述べているわけなのである。」までが一つの文章として繋がってるのだわ。ホント長いよ^^;。
個人的な感想も山中先生の言う、操作的診断第一主義やらEBMやらを
今の放送大学の心理学を通して見聞きし、
そこにいわゆる「たましい」がないなあと感じていたのだ。
自分がユング派に近いところ勉強してきたこともあるんだろうけど、
この感覚はある意味正しかったんだとストンと落ちてくれた。
難しいかなと少しずつ読んでいたけど、一つ一つはとても分かり易かった。
ただ著者はスイスの人で、周辺国の例えとかでてくるのがちょっとわかりにくかったけど^^;。
でも久しぶりにユング派の著書を読んで、やっぱりこの方向に自分が経っているのを感じた。
以上、後々に読み返して思い出すためのノート
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