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ちりぬるをわか

日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

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最近思うのだけど

あまぞんにかぎらずネットの中で本などの作品について書かれているものを目にすることがある。
その中で、この作品はおかしい、辻褄が合わない、話の流れが変だ などと言ってるものもある。そんな人達は、その作品の「世界」を否定してるわけだ。

作品に描かれたその世界(世界観)に対して言ってるこれらの文句は、つまりは、言ってる人がその作品を理解できていない事を露わにしてしまう。
作品の内側から何か言うのではなく、外側から読み手その人が持つ尺度ものさしで測って、違っているとかおかしいとか変だという。それってまるっきり的はずれな事を言ってるのだってわからないのだろうか。

ひいては文句を言っている人の程度が知れるということでもある。

でもそういう自分のモノサシでしか物事(本であれなにかの索引であれ、時事であれ)を判断できない人達って増えてるように思える。インターネットだから自分の事を特定できずに何を言ってもいいのだと思ってしまう人達と、程度は違えど同じ傾向なのだろう。

たとえば、とある作品の中ではカエルが話しをする。すると、カエルが喋るわけがない、だからこの作品はおかしい、変だ、ありえないと言う。
それが的外れだというのがわからないのだろうなあ。

カエルが話しをするという世界の中での物語なのだからカエルが喋ったとしてもそれを受け入れるのが作品の楽しみ方ではないのか?
そんなふうにしか物事を測れないのだろうか?

たとえば、ビルの一室、ドアを開けたらいきなり井戸が出てきて、主人公はその中に潜っていかなくてはいけない、という作品で、そんなことはありえない、と言う事自体が作品の否定だとわ分かっていないのだろう。

その世界がどんな世界なのだろうかと考える頭の柔らかさは無いのだろうか?
それを受け入れた上で、井戸の中での出来事がどうだったかを楽しみ、判断するのが物語の楽しみ方の一つだと思うのだけど。

カエルが話しをする世界を受け入て、なおかつそこで明らかに間違っている(不条理な)理屈があるのならばそれを言うのはかまわないと思うが、大抵の場合、その世界の中ではその不条理が道理なので間違いだとは言えなくなってしまう。



でも世界は人の数だけ存在する。
というのはなんだかエヴァの中で出てきそうなセリフだけど、それらの世界を見る(楽しむ)ことの出来る頭や心の柔軟さをずっと持っていたいものだ。


何かを自分のモノサシで測ってしまう人。
それって作品を他人に置き換えても同じ事が起こるだろうな。

なんだか嫌な時代だなあ。
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昨夜のためしてがってんいただきましたで、レンコンが取り上げられてました。
見るともなく見ていたら、ミャンマーのインレー湖にある大きなレンコン畑が出てきました。

このレンコンは食べるためではなく、蓮の茎から糸を取り出すためのレンコン畑で
その糸を取り出す様子なども出てきていました。

蓮の茎を折ると細い繊維質たくさん出て来ますが、それを撚り合わせて太い糸にして、それをつかって織物をするのだそうです。

これを見て、奈良の當麻寺の當麻曼荼羅の事を思い出したのです。
いつどこで読んだのかは憶えていませんが、古今著聞集という平安時代の話に出てくる
横佩大臣女當麻寺曼荼羅を織る事 という話です。

中将姫が一夜にして織り上げたとか、まあいろいろと話しがあるのですが
もしかしたら京都かどこかのお寺の関連で見たのかもしれません。

で、その時は蓮の糸で織るなんてとてもじゃないけど出来ないだろう。
多分仏の加護があって、というような大げさな話なのだと思っていたのですが、
昨夜のがってんで出てきたミャンマーの蓮の糸を見て思わず目から鱗が落ちて
納得が行ったのでした。

一夜にというのはまあ、大げさなのでしょうけど、
確かに蓮から取り出して布を織るというのは実際的なものだったのですねえ。

ホントがってんしました^^。
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雑記メモ帳に書かれたメモからラテン語の短文の意味を調べて考えてみた。

ネットで検索してもラテン語を扱ってる日本のサイトは非常に少ない。
中には、自分が考えても間違ってるのではないかと思われるサイトもあったりするので
こういうのがネット情報の不正確さを表す一つなのかな・・とか思ったりして。

ラテン語は学生時代に一年ちょっとやっていた。成績の方はあまりよろしくなかったけど、普通に生活してる日本の人たちよりは馴染んでるかなあ。

で、今回調べていたのはsapere aude(サペレ アウデ)という短文。
こういうのがラテン語の特徴で、主語が省けたり、定冠詞がなかったり、英語とは随分違うパターンの文法です。

サレペsarepeは知恵というか日本語で言うところの「知」相当する言葉だと思う。
これは語尾がすでに変化したもので、文中で使われるのでsapereになるのだが、もともとはsapio
というのが変化前で・・と書いていいるが、これは調べてわかったことなので、多様な語尾変化などはすっかり忘れてしまっていた(笑)

サピオがサペレに変化、でも基本的な意味は変わらず、サピsapiは知恵。
ちなみにホモ・サピエンスのサピもここから来ている(ホモはこの場合人間の意味)

アウデaudeというのは平たく言うと「頑張る」という意味合いで、これも語尾変化から命令形になっているので頑張れ!となる。

あれこれと考えを巡らせて・・・

で、この二語をどう訳するのかという翻訳の範疇的な事を考えていたのだ。

単純に「知恵を頑張れ!」というのでは直訳すぎて意味が分からない。

そこで頑張れを、挑戦するとか敢えてとりかかると言い換える。
知恵、挑戦しろ → 知恵に挑戦するべし → 知識に取り組みなさい などなど

そうやって最終的に自分の翻訳として「心して知を求めよ」というものになった。
もともとラテン語というのが古い古い言葉だし、こういう表現が合ってるんじゃないかなと思ったのだ。

ここに至るまで半日程度かかったが、なんとなくスッキリできた。

しかし

たかが2語を訳するのに半日。
これじゃ翻訳は仕事にならないなあ。

う~ん、頭の体操と言うことにしておこう。
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