ちりぬるをわか
日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

このところいろんな事がちょこちょこ気になって仕方がない。
先日の本のコメントもそうだったけど、ネットやテレビを見ていると
今まで思いもしなかったことが引っかかってしまう。
こういうのは歳なのかなということで済ませる。
が、そのことについて、なにかしら理屈めいたことを考えてしまう。
そういう傾向性が出てくるようになったのかなあ?
テレビは演出というか、話の持って行き方が鼻につく。
これみよがしの番組ばかりだと思うので最近はほとんど見ない。
見ているのは、えぬえっちけえだとブラタモリと美の壺くらい。
民放だと鉄腕ダッシュだけになってる^^;。
最近はニュース番組も見なくなってしまった。
世間からどんどんと遠ざかってる感じだ。
いずれどこかの山中に草庵でも作って暮らすのもいいかも。
さぞやのんびり暮らせるだろうなあ。
鴨長明の方丈記の気分にひたれるか^^。
・・・と書いていて自分でも、そうなんだ、方丈記的な感覚になってるのかなと思い至る。
やっぱりそういうお年頃なのでしょうか。
先日の本のコメントもそうだったけど、ネットやテレビを見ていると
今まで思いもしなかったことが引っかかってしまう。
こういうのは歳なのかなということで済ませる。
が、そのことについて、なにかしら理屈めいたことを考えてしまう。
そういう傾向性が出てくるようになったのかなあ?
テレビは演出というか、話の持って行き方が鼻につく。
これみよがしの番組ばかりだと思うので最近はほとんど見ない。
見ているのは、えぬえっちけえだとブラタモリと美の壺くらい。
民放だと鉄腕ダッシュだけになってる^^;。
最近はニュース番組も見なくなってしまった。
世間からどんどんと遠ざかってる感じだ。
いずれどこかの山中に草庵でも作って暮らすのもいいかも。
さぞやのんびり暮らせるだろうなあ。
鴨長明の方丈記の気分にひたれるか^^。
・・・と書いていて自分でも、そうなんだ、方丈記的な感覚になってるのかなと思い至る。
やっぱりそういうお年頃なのでしょうか。
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いつも末日になると一ヶ月が早いなあと思う。
そしてそのまま一年過ぎていってしまう。
年をとると時間が経つのが早いのだ。
というか早く感じるのだ。
そういう理屈があるのだそうだ。
10才の時の時間と60才の時間で比べてみると;
例えば一年の長さは
10才だと一年は今まで生きていた10分の1の長さもあるのに
60才だと一年が人生の60分の1の長さに感じてしまうのだそうだ
同じ時間だと10才では60才の6倍もの長さに感じる
逆に言うと、60才になると10才の頃の6倍の速さで過ぎていくように感じる。
大雑把に言ってこんな理屈だったと思う。
まあ、理屈はともかく、年々早くなってるなあって^^;。
さて、今日は良い天気。
一日頑張って乗り切りましょ^^。
そしてそのまま一年過ぎていってしまう。
年をとると時間が経つのが早いのだ。
というか早く感じるのだ。
そういう理屈があるのだそうだ。
10才の時の時間と60才の時間で比べてみると;
例えば一年の長さは
10才だと一年は今まで生きていた10分の1の長さもあるのに
60才だと一年が人生の60分の1の長さに感じてしまうのだそうだ
同じ時間だと10才では60才の6倍もの長さに感じる
逆に言うと、60才になると10才の頃の6倍の速さで過ぎていくように感じる。
大雑把に言ってこんな理屈だったと思う。
まあ、理屈はともかく、年々早くなってるなあって^^;。
さて、今日は良い天気。
一日頑張って乗り切りましょ^^。


最近思うのだけど
あまぞんにかぎらずネットの中で本などの作品について書かれているものを目にすることがある。
その中で、この作品はおかしい、辻褄が合わない、話の流れが変だ などと言ってるものもある。そんな人達は、その作品の「世界」を否定してるわけだ。
作品に描かれたその世界(世界観)に対して言ってるこれらの文句は、つまりは、言ってる人がその作品を理解できていない事を露わにしてしまう。
作品の内側から何か言うのではなく、外側から読み手その人が持つ尺度ものさしで測って、違っているとかおかしいとか変だという。それってまるっきり的はずれな事を言ってるのだってわからないのだろうか。
ひいては文句を言っている人の程度が知れるということでもある。
でもそういう自分のモノサシでしか物事(本であれなにかの索引であれ、時事であれ)を判断できない人達って増えてるように思える。インターネットだから自分の事を特定できずに何を言ってもいいのだと思ってしまう人達と、程度は違えど同じ傾向なのだろう。
たとえば、とある作品の中ではカエルが話しをする。すると、カエルが喋るわけがない、だからこの作品はおかしい、変だ、ありえないと言う。
それが的外れだというのがわからないのだろうなあ。
カエルが話しをするという世界の中での物語なのだからカエルが喋ったとしてもそれを受け入れるのが作品の楽しみ方ではないのか?
そんなふうにしか物事を測れないのだろうか?
たとえば、ビルの一室、ドアを開けたらいきなり井戸が出てきて、主人公はその中に潜っていかなくてはいけない、という作品で、そんなことはありえない、と言う事自体が作品の否定だとわ分かっていないのだろう。
その世界がどんな世界なのだろうかと考える頭の柔らかさは無いのだろうか?
それを受け入れた上で、井戸の中での出来事がどうだったかを楽しみ、判断するのが物語の楽しみ方の一つだと思うのだけど。
カエルが話しをする世界を受け入て、なおかつそこで明らかに間違っている(不条理な)理屈があるのならばそれを言うのはかまわないと思うが、大抵の場合、その世界の中ではその不条理が道理なので間違いだとは言えなくなってしまう。
でも世界は人の数だけ存在する。
というのはなんだかエヴァの中で出てきそうなセリフだけど、それらの世界を見る(楽しむ)ことの出来る頭や心の柔軟さをずっと持っていたいものだ。
何かを自分のモノサシで測ってしまう人。
それって作品を他人に置き換えても同じ事が起こるだろうな。
なんだか嫌な時代だなあ。
あまぞんにかぎらずネットの中で本などの作品について書かれているものを目にすることがある。
その中で、この作品はおかしい、辻褄が合わない、話の流れが変だ などと言ってるものもある。そんな人達は、その作品の「世界」を否定してるわけだ。
作品に描かれたその世界(世界観)に対して言ってるこれらの文句は、つまりは、言ってる人がその作品を理解できていない事を露わにしてしまう。
作品の内側から何か言うのではなく、外側から読み手その人が持つ尺度ものさしで測って、違っているとかおかしいとか変だという。それってまるっきり的はずれな事を言ってるのだってわからないのだろうか。
ひいては文句を言っている人の程度が知れるということでもある。
でもそういう自分のモノサシでしか物事(本であれなにかの索引であれ、時事であれ)を判断できない人達って増えてるように思える。インターネットだから自分の事を特定できずに何を言ってもいいのだと思ってしまう人達と、程度は違えど同じ傾向なのだろう。
たとえば、とある作品の中ではカエルが話しをする。すると、カエルが喋るわけがない、だからこの作品はおかしい、変だ、ありえないと言う。
それが的外れだというのがわからないのだろうなあ。
カエルが話しをするという世界の中での物語なのだからカエルが喋ったとしてもそれを受け入れるのが作品の楽しみ方ではないのか?
そんなふうにしか物事を測れないのだろうか?
たとえば、ビルの一室、ドアを開けたらいきなり井戸が出てきて、主人公はその中に潜っていかなくてはいけない、という作品で、そんなことはありえない、と言う事自体が作品の否定だとわ分かっていないのだろう。
その世界がどんな世界なのだろうかと考える頭の柔らかさは無いのだろうか?
それを受け入れた上で、井戸の中での出来事がどうだったかを楽しみ、判断するのが物語の楽しみ方の一つだと思うのだけど。
カエルが話しをする世界を受け入て、なおかつそこで明らかに間違っている(不条理な)理屈があるのならばそれを言うのはかまわないと思うが、大抵の場合、その世界の中ではその不条理が道理なので間違いだとは言えなくなってしまう。
でも世界は人の数だけ存在する。
というのはなんだかエヴァの中で出てきそうなセリフだけど、それらの世界を見る(楽しむ)ことの出来る頭や心の柔軟さをずっと持っていたいものだ。
何かを自分のモノサシで測ってしまう人。
それって作品を他人に置き換えても同じ事が起こるだろうな。
なんだか嫌な時代だなあ。
