ちりぬるをわか
日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。
このところちょこちょこと古い本を読み進めています。
古いといっても古典というほどではなく、フランスの作家エクトール・マロが1878年に発表した「家なき子」。テレビで同名のドラマ(同情するなら金をくれ)がありましたが、あれとは全く違います(笑)。
ネットのサイトで、無料でこの本が読めると知ったのでパソコンにダウンロードして読んでいるのです。
この本は児童文学で、孤児の少年レミが旅芸人のおじいさんに引き取られて旅をするという話です。児童文学というくらいですから、この本を読んだのは50年以上前。
本の題を見るまで忘れていましたが、読み始めると本の事やその頃の事を少し思い出します。
当時、少年少女・世界の名作文学という本が、近所の子の家にあって、それを借りて読んだのでした。(先程ネットで検索したら全部で50巻にもなったそうです。でも検索して出てくる本の画像やらがすごく懐かしい^^)
この本の他に借りた同じ作者の「家なき娘」というのを読んだのも思い出しました。いろいろ記憶が出てくるものですねえ。
そして読み進めると、本の文章や表現(かなり古い訳で、言葉づいかいも古いのです)も思い出してきました。
ああそうか、当時読んだ本は、今ここで読んでいるものと同じなんだ、と思うとそれも懐かしい。
今朝はそんなことを思いながら布団の中でゴロゴロしていたのですが、寝返りを打つと少しくら~っと引っ張られました。
う~む、昨日、めまいも少しましに、とここに書いたのに、一進一退なんだなあ、と改めて感じました。^^;
まあ、そんなこんなの今朝は、昨日メール注文したオカリナハウスの返信がいつかな~と楽しみに待ってるところなのです^^。
古いといっても古典というほどではなく、フランスの作家エクトール・マロが1878年に発表した「家なき子」。テレビで同名のドラマ(同情するなら金をくれ)がありましたが、あれとは全く違います(笑)。
ネットのサイトで、無料でこの本が読めると知ったのでパソコンにダウンロードして読んでいるのです。
この本は児童文学で、孤児の少年レミが旅芸人のおじいさんに引き取られて旅をするという話です。児童文学というくらいですから、この本を読んだのは50年以上前。
本の題を見るまで忘れていましたが、読み始めると本の事やその頃の事を少し思い出します。
当時、少年少女・世界の名作文学という本が、近所の子の家にあって、それを借りて読んだのでした。(先程ネットで検索したら全部で50巻にもなったそうです。でも検索して出てくる本の画像やらがすごく懐かしい^^)
この本の他に借りた同じ作者の「家なき娘」というのを読んだのも思い出しました。いろいろ記憶が出てくるものですねえ。
そして読み進めると、本の文章や表現(かなり古い訳で、言葉づいかいも古いのです)も思い出してきました。
ああそうか、当時読んだ本は、今ここで読んでいるものと同じなんだ、と思うとそれも懐かしい。
今朝はそんなことを思いながら布団の中でゴロゴロしていたのですが、寝返りを打つと少しくら~っと引っ張られました。
う~む、昨日、めまいも少しましに、とここに書いたのに、一進一退なんだなあ、と改めて感じました。^^;
まあ、そんなこんなの今朝は、昨日メール注文したオカリナハウスの返信がいつかな~と楽しみに待ってるところなのです^^。
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長々と借りていた図書館の本。
今日はそのうちの一冊が返却日になっているので、図書館へ行ってこなくては。
年末に借りた本の中では、文庫本で出ているラフカディオ・ハーンの新編「日本の面影」が良かった。
他の本もそれなりに面白かったのだけど、この本には古き良き日本が書かれていて、懐かしさを覚えるような風景の描写がとても心地よかった。
当時、ハーンが日本のことをこれほどまで気に入って、そして詳しく書き残したのもおどろきだったが、そこに描かれる景色の描写がそれらを際立たせてくれた。
松江について書かれた「神々の国の首都」から一節を書き写しておこう。
ハーンが松江の家で目を覚ました早朝の光景から始まる。
「そしてまず、川沿いの庭に芽吹き始めた柔らかな新緑の茂みの向こうに、朝の様子を眺め渡すのである。眼下に流れる大橋川の幅広い鏡のような水面が、すべてをうつろに映し出し、きらきらと光っている。その水面は宍道湖へと注ぎ込み、灰色に霞む山々の緑まで、右手方向に大きく広がっている。川向うでは、尖った青い屋根の家々がどこも戸を閉め切っていて、まるでふたを閉じた箱のように見える。夜は明けたが、まだ日は昇っていない。
ああ、なんと心惹かれる眺めであろうか。眠りそのもののような靄を染めている、朝一番の淡く艶やかな色合いが、今、目にしている霞の中へ溶けこんでゆく。」
と言った調子で綴られているものです。
ハーンの捉え方も素晴らしいけど、それ以上にこの本の翻訳者がすごいのだとも思ってしまった。
新編と題されているのは、新たに訳しなおしたから。だけど、文章が今風の軽い感じではなく、ハーンの時代に見合った豊かさのある語彙を選んでいると思えた。それも難しすぎないような、しかし時代を感じさせる言葉遣い。
とても見事な翻訳文を読んでいるのだとも考えてしまったのでした。
この本は、歳時記的な、あるいは風景描写の文章が好きな人にはおすすめデスね。
個人的にこの本は手元に持っていても良いかな、と思えてしまった。
また中古で探してみましょ^^。。
今日はそのうちの一冊が返却日になっているので、図書館へ行ってこなくては。
年末に借りた本の中では、文庫本で出ているラフカディオ・ハーンの新編「日本の面影」が良かった。
他の本もそれなりに面白かったのだけど、この本には古き良き日本が書かれていて、懐かしさを覚えるような風景の描写がとても心地よかった。
当時、ハーンが日本のことをこれほどまで気に入って、そして詳しく書き残したのもおどろきだったが、そこに描かれる景色の描写がそれらを際立たせてくれた。
松江について書かれた「神々の国の首都」から一節を書き写しておこう。
ハーンが松江の家で目を覚ました早朝の光景から始まる。
「そしてまず、川沿いの庭に芽吹き始めた柔らかな新緑の茂みの向こうに、朝の様子を眺め渡すのである。眼下に流れる大橋川の幅広い鏡のような水面が、すべてをうつろに映し出し、きらきらと光っている。その水面は宍道湖へと注ぎ込み、灰色に霞む山々の緑まで、右手方向に大きく広がっている。川向うでは、尖った青い屋根の家々がどこも戸を閉め切っていて、まるでふたを閉じた箱のように見える。夜は明けたが、まだ日は昇っていない。
ああ、なんと心惹かれる眺めであろうか。眠りそのもののような靄を染めている、朝一番の淡く艶やかな色合いが、今、目にしている霞の中へ溶けこんでゆく。」
と言った調子で綴られているものです。
ハーンの捉え方も素晴らしいけど、それ以上にこの本の翻訳者がすごいのだとも思ってしまった。
新編と題されているのは、新たに訳しなおしたから。だけど、文章が今風の軽い感じではなく、ハーンの時代に見合った豊かさのある語彙を選んでいると思えた。それも難しすぎないような、しかし時代を感じさせる言葉遣い。
とても見事な翻訳文を読んでいるのだとも考えてしまったのでした。
この本は、歳時記的な、あるいは風景描写の文章が好きな人にはおすすめデスね。
個人的にこの本は手元に持っていても良いかな、と思えてしまった。
また中古で探してみましょ^^。。
昨夕、郵便受けを見に行ったら先日注文した中古の文庫本がさっそく届いていた。
おそらく何処かへ行った前の本と同じ時期に出たものではないかと思う。
なのでカバーが少し薄れているのと天地や前小口(本の上下と背表紙の反対側=開く方)の紙が少し色あせている。
でも全体的にかなりきれいだった。
本を開くと表表紙がきれいに折られている。
そこから
34ページ目までは開いた後がついているのだけど、その後のページは全く折り目がついていない。
ってことは、この本を売った人は34ページ目までしか読んでいないのだろうか、思ってその後をパラパラ開いてみる。実はこの本、本文は31ページ目からで、そこまでは長いまえがきと十牛図の各絵がページごとに載せてあるのだ。
で、その31ページめからしばらく進むと36ページ目から41ページに鉛筆で書込みがしてある。書込みに加えて幾つもの漢字に読み仮名が振られている。中には簡単な漢字もあるし、ふりがなが間違ってるところもあったりする。
ああ、これって学生さんが講義か何かでこの箇所を読む宿題でもあったのかな。幾つかの仏教用語にも枠外に意味が書かれてい線が引いてあったり。
あるいは、この箇所を読み合わせるので、読み仮名を書いておいたとか。
でも授業が終わると本はもう開かれる事も無かったのだ。本を少し丸めて前小口を広げてみると、それら書込みが行われたページだけ微妙に色が褪せていて、後のページはほとんどまっさらのように見える。
うん、前の本が出て来る事があったらどれほどボロボロになったか改めて実感するだろうなあ。
それぐらい良い状態の本を手に入れた・・かもしれないね。^^v
おそらく何処かへ行った前の本と同じ時期に出たものではないかと思う。
なのでカバーが少し薄れているのと天地や前小口(本の上下と背表紙の反対側=開く方)の紙が少し色あせている。
でも全体的にかなりきれいだった。
本を開くと表表紙がきれいに折られている。
そこから
34ページ目までは開いた後がついているのだけど、その後のページは全く折り目がついていない。
ってことは、この本を売った人は34ページ目までしか読んでいないのだろうか、思ってその後をパラパラ開いてみる。実はこの本、本文は31ページ目からで、そこまでは長いまえがきと十牛図の各絵がページごとに載せてあるのだ。
で、その31ページめからしばらく進むと36ページ目から41ページに鉛筆で書込みがしてある。書込みに加えて幾つもの漢字に読み仮名が振られている。中には簡単な漢字もあるし、ふりがなが間違ってるところもあったりする。
ああ、これって学生さんが講義か何かでこの箇所を読む宿題でもあったのかな。幾つかの仏教用語にも枠外に意味が書かれてい線が引いてあったり。
あるいは、この箇所を読み合わせるので、読み仮名を書いておいたとか。
でも授業が終わると本はもう開かれる事も無かったのだ。本を少し丸めて前小口を広げてみると、それら書込みが行われたページだけ微妙に色が褪せていて、後のページはほとんどまっさらのように見える。
うん、前の本が出て来る事があったらどれほどボロボロになったか改めて実感するだろうなあ。
それぐらい良い状態の本を手に入れた・・かもしれないね。^^v