ちりぬるをわか
日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

本日、別の日記サイトからこちらへ移ってきました。
それまでの日記はしばらく放置にしましょ。
それではよろしくね。
明日、ひとまず今月書いた分をインポートしてみます。
うまく行けばいいのだけど。
それまでの日記はしばらく放置にしましょ。
それではよろしくね。
明日、ひとまず今月書いた分をインポートしてみます。
うまく行けばいいのだけど。
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今日はこの後、もう少しすると住民理事会の臨時の打ち合わせに出かけなくてはいけません。こういう日に限って朝目が覚めてから始動するまでの時間が長かったりして、気持ちがバタバタしています(^^;)。
さて、昨日は株を保有している某社から郵便振替でささやかな額の配当金が届いた。いや〜、ホント、子供のおこづかい程度なんだけど、収入にはちがないからねえ。ありがたくちょうだいする。
今週は時々株式の動きを見ていたけど、持ち株はいずれもあまり芳しく無い。ハッキリ言って買った時よりも相当下がっているのだけど、今は売買して利益をえるという気持ちが全くないので、将来的大きく跳ね上がったら売るかも知れないという程度で納めている。そのほうが、気持ちにも余裕ができるでしょ(^_^)。
何でもそうだけど、何かに取り組んでそれしか見えなくなってしまわないよう、いろんな所に目を向けられるようにやっていきたいと、自分で思うんだよね。
何かと何かの繋がりを見るようにしているのも、いろんな方向に目を向けて始めて分かる事だろうし、そうするためにも自分の中にゆとりというか余裕が無くては…。
ただ、それをするために、自分を無理に追い込んでも返ってダメになるので、できるだけ自然体でやっていきたいよね。
自然体だから、凹む時もあれば凸る時もある。でもどちらが悪いとか良いとか、そんな事よりも自分がそういう状態で、それでもそれで善し、と出来るようになりたいねえ。
ところで、先日の存在の有無に関する考察(だっけ?)で、なぜ仏教や般若心経が出てきたかというと、「空」という概念が引っ掛かったから。ただ、どの仏典に拠るのかで「空」の捉えかたは変わって一貫性を欠いたネックになってる。個別にそれをあたっていくのも面倒臭くなって、般若心経だけ読んでで終わってしまった、という状態だった。
で、そのお経のなかに、いろんなものは空だからそれに一喜一憂しないように、というのがあるんだけど、これって、自分が考えてる事と同じようだけど、実はぜんぜん違うと感じたのを、ふと思い出した。
別に空を悟ってその世界で生きたいわけじゃ無いのさ。今、この世界で凹んだり泣いたり、笑ったり楽しんだり苦しんだり。それでも十分だと思うから、救いはいらないの。
宮本武蔵みたいに「神仏を尊ぶも神仏に頼らず」なんてのならカッコ良いのだけどね(笑)。
さて、昨日は株を保有している某社から郵便振替でささやかな額の配当金が届いた。いや〜、ホント、子供のおこづかい程度なんだけど、収入にはちがないからねえ。ありがたくちょうだいする。
今週は時々株式の動きを見ていたけど、持ち株はいずれもあまり芳しく無い。ハッキリ言って買った時よりも相当下がっているのだけど、今は売買して利益をえるという気持ちが全くないので、将来的大きく跳ね上がったら売るかも知れないという程度で納めている。そのほうが、気持ちにも余裕ができるでしょ(^_^)。
何でもそうだけど、何かに取り組んでそれしか見えなくなってしまわないよう、いろんな所に目を向けられるようにやっていきたいと、自分で思うんだよね。
何かと何かの繋がりを見るようにしているのも、いろんな方向に目を向けて始めて分かる事だろうし、そうするためにも自分の中にゆとりというか余裕が無くては…。
ただ、それをするために、自分を無理に追い込んでも返ってダメになるので、できるだけ自然体でやっていきたいよね。
自然体だから、凹む時もあれば凸る時もある。でもどちらが悪いとか良いとか、そんな事よりも自分がそういう状態で、それでもそれで善し、と出来るようになりたいねえ。
ところで、先日の存在の有無に関する考察(だっけ?)で、なぜ仏教や般若心経が出てきたかというと、「空」という概念が引っ掛かったから。ただ、どの仏典に拠るのかで「空」の捉えかたは変わって一貫性を欠いたネックになってる。個別にそれをあたっていくのも面倒臭くなって、般若心経だけ読んでで終わってしまった、という状態だった。
で、そのお経のなかに、いろんなものは空だからそれに一喜一憂しないように、というのがあるんだけど、これって、自分が考えてる事と同じようだけど、実はぜんぜん違うと感じたのを、ふと思い出した。
別に空を悟ってその世界で生きたいわけじゃ無いのさ。今、この世界で凹んだり泣いたり、笑ったり楽しんだり苦しんだり。それでも十分だと思うから、救いはいらないの。
宮本武蔵みたいに「神仏を尊ぶも神仏に頼らず」なんてのならカッコ良いのだけどね(笑)。


昨日は晴れていたのに、急に曇ってきて慌てて洗濯物を干したら午後にはにわか雨のあとでまた晴れる、というコロコロ変わるお天気。何とか心と秋の空ってヤツですか(笑)。
昼間は、前日の続きでスカボロ・フェアの元になった童謡を訳していました。
なにしろ知らない言葉もそこかしこに出てくるので辞書を引き引きの作業。やっているうちに中世時代に使われた物や言葉が出てきて、おぼろげながら時代の隔たりを感じました〜。童謡の成立が14〜18世紀と言いましたがそれ以前に原形があったと思わせる所もありました。
どうやらグリム童話などにも影響したと思われる「3つの難題を問われるる女の人」の原形と共通した展開であるというのも分かりました。童話のように3つの難問が出てきていて、1:潮の水と浜辺の間に1エーカーの土地を見つける2:その土地を牡羊の角で耕して、コショウの種ひと粒で畑中を豊作にする、3:それを皮の鎌で刈り取って孔雀の羽で束ねる。
というのがこの童話の3つの難題です。故に、昨日も書いたように、パセリ、セージ、ローズマリ−、タイムというのが魔法の呪文であるのではとも繋がってくるんですよね。
ここに出てくるコショウの実は、Peppercornという単語が使われているのですが、辞書に拠るとコショウが出回る前に中世以前に使われていたコショウ風味の実の事なのだそうです。
元々の話がヨーロッパ大陸からイギリスに渡ってきた名残りとも考えられます。グリム童話が中世の伝承からの採取ですし、ゲルマンの伝承の起原が何時になるのだろうと考えるとさらに時代を遡る事は間違い無いわけで。
う〜ん、調べれば調べるほどに深くなっていきます。
ヨーロッパにある伝承ってこういう形で受け継がれ、英語圏ではMother Gooseという形で文化として残っているわけですよね。ここから北米大陸でも結局はヨーロッパ文化を起原としているとも言えないかなと思うのです。
かたや日本では、そういった昔の伝承や民話がどれほど残されているのかな? 古典はもはや、授業の単元でしか無いし、本来継がれてきた、口述文化も一極集中で滅びつつあります。
そう思うと、日本昔話って偉大な番組だったなあと今さらに思うのでした。
閑話休題
昨夜、羊さんにケータイメールしようと思ったら、なぜかずっと圏外のまま。これは、今はメールするなッて事だと、メールは諦めた由。個人的伝言でした(笑)。
昼間は、前日の続きでスカボロ・フェアの元になった童謡を訳していました。
なにしろ知らない言葉もそこかしこに出てくるので辞書を引き引きの作業。やっているうちに中世時代に使われた物や言葉が出てきて、おぼろげながら時代の隔たりを感じました〜。童謡の成立が14〜18世紀と言いましたがそれ以前に原形があったと思わせる所もありました。
どうやらグリム童話などにも影響したと思われる「3つの難題を問われるる女の人」の原形と共通した展開であるというのも分かりました。童話のように3つの難問が出てきていて、1:潮の水と浜辺の間に1エーカーの土地を見つける2:その土地を牡羊の角で耕して、コショウの種ひと粒で畑中を豊作にする、3:それを皮の鎌で刈り取って孔雀の羽で束ねる。
というのがこの童話の3つの難題です。故に、昨日も書いたように、パセリ、セージ、ローズマリ−、タイムというのが魔法の呪文であるのではとも繋がってくるんですよね。
ここに出てくるコショウの実は、Peppercornという単語が使われているのですが、辞書に拠るとコショウが出回る前に中世以前に使われていたコショウ風味の実の事なのだそうです。
元々の話がヨーロッパ大陸からイギリスに渡ってきた名残りとも考えられます。グリム童話が中世の伝承からの採取ですし、ゲルマンの伝承の起原が何時になるのだろうと考えるとさらに時代を遡る事は間違い無いわけで。
う〜ん、調べれば調べるほどに深くなっていきます。
ヨーロッパにある伝承ってこういう形で受け継がれ、英語圏ではMother Gooseという形で文化として残っているわけですよね。ここから北米大陸でも結局はヨーロッパ文化を起原としているとも言えないかなと思うのです。
かたや日本では、そういった昔の伝承や民話がどれほど残されているのかな? 古典はもはや、授業の単元でしか無いし、本来継がれてきた、口述文化も一極集中で滅びつつあります。
そう思うと、日本昔話って偉大な番組だったなあと今さらに思うのでした。
閑話休題
昨夜、羊さんにケータイメールしようと思ったら、なぜかずっと圏外のまま。これは、今はメールするなッて事だと、メールは諦めた由。個人的伝言でした(笑)。
