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ちりぬるをわか

日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

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最近思うのだけど

あまぞんにかぎらずネットの中で本などの作品について書かれているものを目にすることがある。
その中で、この作品はおかしい、辻褄が合わない、話の流れが変だ などと言ってるものもある。そんな人達は、その作品の「世界」を否定してるわけだ。

作品に描かれたその世界(世界観)に対して言ってるこれらの文句は、つまりは、言ってる人がその作品を理解できていない事を露わにしてしまう。
作品の内側から何か言うのではなく、外側から読み手その人が持つ尺度ものさしで測って、違っているとかおかしいとか変だという。それってまるっきり的はずれな事を言ってるのだってわからないのだろうか。

ひいては文句を言っている人の程度が知れるということでもある。

でもそういう自分のモノサシでしか物事(本であれなにかの索引であれ、時事であれ)を判断できない人達って増えてるように思える。インターネットだから自分の事を特定できずに何を言ってもいいのだと思ってしまう人達と、程度は違えど同じ傾向なのだろう。

たとえば、とある作品の中ではカエルが話しをする。すると、カエルが喋るわけがない、だからこの作品はおかしい、変だ、ありえないと言う。
それが的外れだというのがわからないのだろうなあ。

カエルが話しをするという世界の中での物語なのだからカエルが喋ったとしてもそれを受け入れるのが作品の楽しみ方ではないのか?
そんなふうにしか物事を測れないのだろうか?

たとえば、ビルの一室、ドアを開けたらいきなり井戸が出てきて、主人公はその中に潜っていかなくてはいけない、という作品で、そんなことはありえない、と言う事自体が作品の否定だとわ分かっていないのだろう。

その世界がどんな世界なのだろうかと考える頭の柔らかさは無いのだろうか?
それを受け入れた上で、井戸の中での出来事がどうだったかを楽しみ、判断するのが物語の楽しみ方の一つだと思うのだけど。

カエルが話しをする世界を受け入て、なおかつそこで明らかに間違っている(不条理な)理屈があるのならばそれを言うのはかまわないと思うが、大抵の場合、その世界の中ではその不条理が道理なので間違いだとは言えなくなってしまう。



でも世界は人の数だけ存在する。
というのはなんだかエヴァの中で出てきそうなセリフだけど、それらの世界を見る(楽しむ)ことの出来る頭や心の柔軟さをずっと持っていたいものだ。


何かを自分のモノサシで測ってしまう人。
それって作品を他人に置き換えても同じ事が起こるだろうな。

なんだか嫌な時代だなあ。
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