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ちりぬるをわか

日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

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今日はつらつらと「吾唯足知」について思い巡らせました。
以前にもこの言葉について考えた事がありましたが、今回はその発展というか、少し違う方向からの捉え方です。

これは禅などで使われ、京都の龍安寺にある「知足の蹲踞(つくばい)」に彫られている言葉で有名です。
遺教経というお経に書かれてる「知足」というのがもともとらしく、このお経の内容からも欲にとらわれず今の状態で満足することが大事だというような意味らしいのです。
こういうところが禅修行のストイックなところと重なるわけで、なるほどなあとは思います。また断捨離的な意味に繋がって物欲にまみれず慎ましやかな中でも人生の満足を得ることが大事だと言う意味などなど。

そこまでは一般的な意味なのだけど、禅宗の思考を重ねて突き抜けるような物事に対する向き合い方がそんなに単純な「素朴な生き方、慎ましやかな人生」でとどまるようなものでは無いはず。禅的な展開の中でも使われているのは、そこに禅的付加価値というか、意味が含まれているからではないのか?

その意味はなんなのだろう?
・・・というのが今回の考えの方向性でした。

この「吾唯足知」ですが、「吾、唯足るを知る」と読むそうです。
ここでのポイントは「足る」です。

何が足りているのか?いろいろなものへの欲に対して、これ以上求めなくとも、今あるものですでに足りているというのです。まあ、そういうのはあちこちで書かれていることなので割愛。

そこから一段掘り下げます。
禅の十牛図に沿って考えてみて、禅で一番大事な「足る」は仏性に対するものと考えたわけです。十牛図で言われる「そこにすでにあるのに、無いと思って探し求めてしまう」(もともとあるのに失ったとおもってしまう)ような状態にあるが故に「唯足りている」と指摘し、それを重視するのではないか。

自身の中に必要なもの(仏性)はすでにある。それをいかに自覚するかが修行であり、その結果「唯足る」を知ることで、新たな展開を得るわけです。
知ったらどうなるのか、そこからも大事なのですが、とりあえず「吾唯足るを知る」はこの状態を指しているのではないか。・・・・というところまでなんとかまとまった(笑)。

でも、実際のところは紆余曲折を経て、いろんな疑問符が浮かんで、その挙げ句に仏教って本当はなにがいいたいの?というところに行き着いたりしてたわけです。
それは過日の日本人の精神性、心とか、そこに見え隠れする神道という後付の考えに関しても同じで、結局、それってなんなのだろう?と基本的かつ最大の疑問が残るわけです。
そこを突き詰めて考えると宗教学や民俗学的な方向へ行くんでしょうね。

こういうのも考え出すとキリがない。先日のテクテクと一緒で、どこに限度があるのかわからなくなってしまいます。テクテクなら体が動かないところが限界です。でも考える事にはそういう明確な限界がない。
おそらく思考が停止して、ここから始まったということにしよう、と判断したところが限界なんだろうと思います。それは古今の民俗学や国学の先人も同じで,そこを出発点として自分なりの史観や考え方を発展させるのでしょう。
そしてその考えに沿って事象を理解し視点が展開されていくということになります。なので出発点にたどり着いた後に終わりのない長い道程がさらに続くわけです。
もう大変だ~^^;。

まあ、そんなことを考えていると本当にとりとめもなく考えが広がっていくのでこの辺りで一旦終了。
そんな一日なのでした。

頭の体操お疲れ様(笑)。
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