ちりぬるをわか
日々のちょっとした事。で、いろんなことがあったりなかったり。

そういえば、おーくしょんで手に入れた古銭の中に、とんでもなくひどい状態のものがあって、それがなんだろうと気になっていた。
粗悪品というか、鋳物として作る工程ででた不良品なのだろうけど、とんどもなく酷いものがあって、厚みも足りない、欠けている、細かい穴だらけ、表の字がほどんど読み取れない・・などなど。
今の硬貨を作る技術からすると、もう考えられないレベルなのだけど、当時の人は全部手作りでやっていたのだし、こういうのもあるのかなあ。
そんな程度に考えていたのだが、やっぱり解せないのであれこれと探ってみたら、こういうのは、鐚銭(びたせん)というのだそうだ。金へんに悪という、国字なのだそうだけど、まさにそのとおり。
びた一文も負けないなどという、古い言葉にあるあの「びた」なのだって。
こういう悪銭は真ん中の穴に紐をとおして、たとえば20枚で10文とかいう具合に通貨価値が減らされ他状態で使われていたそうだ。
通常、通貨は一枚一文なのだけど、鐚銭だと一枚一文にならないという換算。
なのでびた一文というのは、鐚銭一枚分ということで、僅かな額という意味になるんだろ。
なんかこれ、当時本当に使われていたのかなというのが、手元に何枚かあるんだが、これでもやっぱり物が買えたのだと思うと、なかなか感慨深いものがある。
と思うんだけどなあ(笑)。
粗悪品というか、鋳物として作る工程ででた不良品なのだろうけど、とんどもなく酷いものがあって、厚みも足りない、欠けている、細かい穴だらけ、表の字がほどんど読み取れない・・などなど。
今の硬貨を作る技術からすると、もう考えられないレベルなのだけど、当時の人は全部手作りでやっていたのだし、こういうのもあるのかなあ。
そんな程度に考えていたのだが、やっぱり解せないのであれこれと探ってみたら、こういうのは、鐚銭(びたせん)というのだそうだ。金へんに悪という、国字なのだそうだけど、まさにそのとおり。
びた一文も負けないなどという、古い言葉にあるあの「びた」なのだって。
こういう悪銭は真ん中の穴に紐をとおして、たとえば20枚で10文とかいう具合に通貨価値が減らされ他状態で使われていたそうだ。
通常、通貨は一枚一文なのだけど、鐚銭だと一枚一文にならないという換算。
なのでびた一文というのは、鐚銭一枚分ということで、僅かな額という意味になるんだろ。
なんかこれ、当時本当に使われていたのかなというのが、手元に何枚かあるんだが、これでもやっぱり物が買えたのだと思うと、なかなか感慨深いものがある。
と思うんだけどなあ(笑)。
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札幌から戻って来た。
行っている間、何度も思った事は、
何か一つやるたびにため息がでるなあ、ってことだった。
座るとはぁ~、横になるとはぁ~
一口食べてもはぁ~
一息つくたびにはぁ~
とにかく、はぁ~。
なにか事あるごとに、はぁ~。(笑)
よっこいしょ、というのは出ないのだけど・・・。
寝不足で疲れてるのか、歳で疲れてるのか。
それとも息切れしているのかな?
はぁ~(笑)
行っている間、何度も思った事は、
何か一つやるたびにため息がでるなあ、ってことだった。
座るとはぁ~、横になるとはぁ~
一口食べてもはぁ~
一息つくたびにはぁ~
とにかく、はぁ~。
なにか事あるごとに、はぁ~。(笑)
よっこいしょ、というのは出ないのだけど・・・。
寝不足で疲れてるのか、歳で疲れてるのか。
それとも息切れしているのかな?
はぁ~(笑)


古いことわざに「鞠は九損一徳」というのがあるそうだ。
鞠というのは蹴鞠の事を指しているらしいが、そういった遊びや芸事は、10の内、9が損で1が得(徳)という意味。
それは今で言う趣味の類になるのだろうけど、趣味でやってることって10のうち9が損、というか世間的には大した意味が無いことが多いと読み替えてみる。
趣味にお金を使う、時間を使う、それは損なのかもしれない。実利がないという意味ではあれこれと出ていくものばかりだが、そんな趣味でも一つくらいは何か得になることもあるということも言えるのかな。
こう考えると、昔のオタクというのはこの一徳なのかもしれない。
今のオタクはどうなのかしらないけど、オタクという言葉が出始めた頃は、ある物事に関して専門的な知識を有する人という意味合いもあったのにね。いつの間にか、単に見下す言葉に変わってしまったような気がする。
まあ、そんなことはさて置いて、専門的な方面に知識や通じているというのは古来あった話で、芭蕉も俳諧のことだけをやっていて他のことは知らないよ、と言っていた。もっとも、この道一筋というのは、それに関わる森羅万象の世界が含まれているので、単に狭い視野の一筋ではないのは当然。
今の時代って、サブカルチャーとか言われるように、あらゆるものが細分化して、細分すればするほどそこにいる人達も視野が狭くなって、一筋が細い細い一本の蜘蛛の糸のようになってしまったのだろうなあ。
九損一徳から少しずれてしまったが、一徳をどこに見出すか、それはその人にしかわからないことではある。個人として何が大切なのか。何に価値を見出すのか。何に徳を見つけるのか。
そういうのは、趣味だけじゃなくて、きっといろんな所に通じていることでもあるのだと思ったりする。
どんな物事にも九損を見るよりも、一つ徳を見つける人でありたいと思う。
鞠というのは蹴鞠の事を指しているらしいが、そういった遊びや芸事は、10の内、9が損で1が得(徳)という意味。
それは今で言う趣味の類になるのだろうけど、趣味でやってることって10のうち9が損、というか世間的には大した意味が無いことが多いと読み替えてみる。
趣味にお金を使う、時間を使う、それは損なのかもしれない。実利がないという意味ではあれこれと出ていくものばかりだが、そんな趣味でも一つくらいは何か得になることもあるということも言えるのかな。
こう考えると、昔のオタクというのはこの一徳なのかもしれない。
今のオタクはどうなのかしらないけど、オタクという言葉が出始めた頃は、ある物事に関して専門的な知識を有する人という意味合いもあったのにね。いつの間にか、単に見下す言葉に変わってしまったような気がする。
まあ、そんなことはさて置いて、専門的な方面に知識や通じているというのは古来あった話で、芭蕉も俳諧のことだけをやっていて他のことは知らないよ、と言っていた。もっとも、この道一筋というのは、それに関わる森羅万象の世界が含まれているので、単に狭い視野の一筋ではないのは当然。
今の時代って、サブカルチャーとか言われるように、あらゆるものが細分化して、細分すればするほどそこにいる人達も視野が狭くなって、一筋が細い細い一本の蜘蛛の糸のようになってしまったのだろうなあ。
九損一徳から少しずれてしまったが、一徳をどこに見出すか、それはその人にしかわからないことではある。個人として何が大切なのか。何に価値を見出すのか。何に徳を見つけるのか。
そういうのは、趣味だけじゃなくて、きっといろんな所に通じていることでもあるのだと思ったりする。
どんな物事にも九損を見るよりも、一つ徳を見つける人でありたいと思う。
